終戦の日と占領下の記憶ーー小林昌三

2013-08-22
“挑戦するシニア”ブログにて 終戦時の様子、大変興味深く拝見しました。
私は「その日」、三番町の家にて大きな空襲のサイレンの音を聴きながら、靖国神社の大鳥居辺りに米軍機 B-29から投下された焼夷弾を見たり、周囲が火の海で遠く九段下・神田方面が真っ赤に染まっていたのを覚えている。
ラジオの前で“玉音放送”を聴いて、親父が涙を流していたのを かすかに覚えている。
確かに 食べ物が乏しく、それから母親の実家、福島県郡山市の近辺に満員汽車に乗り、上野駅から疎開した。
しかし、そこでも白米は入手し難く、さつまいもやジャガイモ、とうもろこし、モチなどで飢えをしのいでいた。1年も経たぬ内に東京に戻り(幸いわが家は焼けずに済んだ)、ヤミ市などで食べ物入手にオヤジはかけまわっていた。
飯ごう で玄米をたいたり、得体のしれない器具で蒸しパンみたいのを焼いたり、すいとんは日常食べていた。
また、焼け跡を開墾し(現在の九段坂病院の建物が出来る前・内堀通り側はわが家の敷地・戦前海軍省に親父が貸していた)、さつまいも・じゃがいも、トマト、きゅうり、インゲン豆・とうもろこしなど種を蒔いて収穫したり・・・・とにかく子供がどこでも多勢いたので、みんな食べるのに苦労していた。 
ピーナツや乾燥イモなど貴重品、あめ玉やチュインガム、アメちゃんGeepから配っていたチョコレートなど『うまいなあ~!』と子供はみんな欲しがっていた。
下手な英語で Give me   chocolate, chew ing gum ! 等とアメちゃんが軍服でGeepが とおりかかると声をあげて叫んだり・・・・。 
また、アメちゃんがPX などで入手したアイスクリームの旨かったこと!!
わが家は 英国大使館が近かったせいか、良くガイジンが 家の前を往来していた。そしてオヤジが子供達を集めて話したこと:
” これからは英語だ!おまえら皆、英語ぐらいはマスターせよ”と。
兄弟・姉妹で日米会話学院に通ったのは6人中、4名(長姉・昭和5年生まれ、後にアメリカ留学、兄昭和8年生まれ・後ンいフルブライトでイリノイ大学留学・毎日放送NY駐在、私ソニー&一番したの弟・三井物産勤務)と。
そして庭の手入れで壁をこわし、石や庭木を入れる様子を興味深く 立ち止まり眺めているガイジンがいると、手招きで我が家に招き入れ、お茶を出したり・・・・そして『ほら、英語で話してみろ!』とハッパをかけられ 三省堂の辞書を片手に怪しい英語(?)でやっていた。
現在、一般財団法人 千秋文庫のできる前の場所での話。そんな訳で早房さんが書かれている「いつもお腹を空かしていた」のは東京でも同じだった。
さつまいもやジャガイモのふかしたのを何とウマイ!と感じたことか。
今、一番町信号近くにカレー屋があるが、何故か いつも「ジャガイモのふかしたやつ」が出るが、それを食べる度に戦後のわが家の事を思い出す。
Ciao !    Ciao   ! 
豪ヒマ人 より

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