日本人外交官のおかげでポーランドから豪州に逃れたユダヤ人

2013-10-06
「挑戦するシニア」の皆さん、その後 如何お過ごし でしょうか?
猛暑日の続いた夏も過ぎ、大分 過ごし易くなったと ニュースで承知しています。
逆に 南半球は これから暑い日になり、ゴルフ等で Water Bottle   持参が不可欠な日々が始まっています。
今夏は相当 暑い日々が予想され、今から 水不足、山火事(Bushfire)、旱魃が心配されます。
さて、突然ですが、昨年 何人かの仲間に 薄いパンフレット” A  Lucky Story “ - How Polish family came to Australia in 1941 – written  by Leonard Spira を 写真と彼の署名入りで、お配りしました。
 その Spira  氏が9月24日、この数年ガンを患った後、心臓発作にて お亡くなりになりました。
享年 78歳でした。ご冥福を心からお祈り致します。
Mr Spira は 当地 Noosa Heads 地域にて Noosa Chorale混声合唱団を指揮、優しいお人柄と豊かなクラシック音楽への 経験と 知識で 、合唱団員はむろんのこと、地元の人々からも尊敬されてきました。 
この混声合唱団創設 当初(1993年)から12年間 Noosa Chorale を毎週  練習 指揮しながら 年に数回Concert    開催、2006年 引退。後を London から来たAdrian King氏に引き継いだ。
実は、小生も2003年頃から この混声合唱団に 入団させてもらい Bass 部門で、2006年リタイアするまで、彼の指揮のもとで歌っていました。
こんな田舎のこととて、東洋人は少なく、ましてや日本人で クラシック音楽に興味を示す人はゼロ。
60歳を超えた 白人高齢者に混じり、メンバーの一人として 端っこの方で慣れない楽譜を手に懸命に、毎週1度の練習に参加・歌っていました。
Spria氏が私が日本人だと知り、だいぶ経ってから ” 実は自分は両親と共に日本(人)に大変お世話になり、今でも感謝している” ことを披露されました。
そして、その時に,Spira 自身が書かれた ”A Lucky Story” を頂戴しました。
そこには 1941年 戦争時  ポーランド侵攻の ドイツ・ナチから逃れ、リトアニア杉原千畝・領事代理発行Visaのお陰で、家族が Moscow 経由 シベリア鉄道 にてウラジオストックヘ脱出、そこから貨物船Amakusa Maru にて 日本・敦賀湾到着。
日本・在住ポーランド人(ユダヤ)の助けにて神戸へ 移動。Transit Visa で2週間しか滞在できず、日本脱出を待っていた。
『鹿島丸』(NYK所属?)にて1941 /late July ようやく 神戸港出港、オーストラリアへ向かった。途中、戦争が激しくなり 鹿島丸 は『日本へ引き返せ!』との命令が出たが、航海途上でオランダ軍艦とすれ違いさまに、停止命令が出て、オランダ人 司令官が鹿島丸・船長に日本は戻らず、そのまま目的地に行くよう指令され August in 1941 、Sydney港到着。
Australia 到着時は 5歳。それから メルボルンで 教育を受け、豊かな才能でピアノ等を習い マスター。大学では 建築学を専攻、同時にクラシック音楽に興味を持ち、卒業後は 建築の仕事のかたわら、クラシック音楽を勉強。
ついに、Melbourne Opera Company を創設したり、Melbourne 交響楽団なども指揮。
元・N響指揮者、岩城宏之氏などとも交流があった。建築の仕事では シドニー・オペラハウス改築を指導したり、シドニーの建築物にたくさん 関与している。  
上記の様な story が皆様に差し上げた小さな パンフレットに記載されています。
そんな訳で 本日は 9月24日 亡くなられたPoland 生まれ Asutralia 人  Mr Leonard  Spira  について書かせて頂きました。 
改めて 心から ご冥福をお祈りする次第です。
小 林 昌 三
豪ヒマ 人 より                                  

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